そして今

季節がひとつ、ふたつと変わり、春の訪れが近づいている。変わったのは季節だけ。自分自身は変わっていない。

性格、体力、気持ち、心意気…何も変わっていない。もちろん、このブログのことも忘れてはいなかった。

一方で、周囲の環境は変わっていく。それは目まぐるしく、時たま置いていかれることすらあるくらいだ。

この先もそれは変わらないことなんだろう。また再出発を願い、もう一度書き残してみる。

そして変わる季節

一つ、また季節が変わろうとしている。いや、すでに変わってしまった。

もう、秋だ。国家的イベントのオリンピック・パラリンピックが終わり、コロナも多少猛威を落ち着けてきており、普段の気を張り詰めている感覚も弱まってきたような気がする。

 

のんびり、何も変わらずに・・・それがいいけれど、そうもいかないし、そうしない方がいいというのも、わかるけれど。

 

どうなっていくんだろうか。

しとしととふりしきる雨を窓越しに見やりながら、思い、また一つ成長しなければと、空の向こうへ小さく誓う。

オリンピック開幕、そして現在

TVを付けても、ニュースを見てもいつでもオリンピックに関する話題が広く掲載されている。

頂点に立つべく争っている選手同士の熱い戦いは、見ていて非常に手に汗握る。それが身近に、すぐ近くの会場で行われているとは、本当に信じられないような機会だ。

ただ、すでに開幕後2週ほど経過したが、評価、様々な罵詈雑言、よくも悪くも、開幕したことが多くのことへ影響を及ぼしている。

一つは、それこそ選手の熱い活躍をみることができていること。これは、日々の原動力にもなる。自分だけではなく、周りや、他の媒体ごしに見る評価からも、それを伺うことができる。

 

そして、二つ目は、コロナウイルスについて。これは、普通に過ごしていれば、選手らと一般市民は別離されているため、オリンピックの影響はないだろうが、例えば市道観戦や、気にせず四方で語らえば、それは、影響が出てしまうというものだ。

良くも悪くも、自分自身の行動にしっかりと自制心を持ち、その上で、スポーツを楽しみたい。

純粋に、選手の活躍を願って、切にそう思う。

巡りめくこの日

変わらない日々が続いている。大変だと思う時は一瞬である。

 

馳せるべく時間もなかった季節はすぎ、もう、気がつけばセミの鳴く声が聞こえる、真夏の入り口だ。

茹だるような気温。謙って愛想笑いを続ける毎日。俺はどこだ?今ここにいるはずの自分自身が、時に自分で見失ってしまうほど、惑い、戸惑ってしまう。

 

と、変な詩はここまでにしておき、変わらない毎日をくり返している。変わらない理由は同じ、コロナのせいというのが一つ。外出や、遠出も憚られる日々が続いており、今しばらく続きそうであるということ。

 

変わらないことは、良いことだと思っていた。感傷に浸りながら、楽しかった毎日をまた繰り返せるから。でも、それはイチ人間として、動物としても、どうなんだろうと思う。

 

悪いわけではない。でも、一つ、また一つの煌めきを求めて、少し違った日々を求めてもいいのかもしれない。

 

 

 

 

 

答えはどう導くのか

コミュ二ケーションにおいて、発言内容を取捨選択するのは、本当に難しいと感じている。

一人が、その答えはAだと言い、もう一人が、いやBだろうと言う。その中で、じゃあ、あなたはどうなんだと言われたら、そりゃあ、両者を汲みながら最善の答えを言うのが正解なんだろうが、条件付きで、例えば、前者の人が後者の発言を聞くことができていない状況だったら?後者の人は発言を少しでも否定されたと思ったら、心を開かなくなってしまうとしたら?

 

めんどくさい条件だが、稀にあるわけではなく、人生には、条件付きで回答を導く機会が頻繁に用意されているようだ。

そんなのやってられないよ、と理不尽であったり、言い訳を言うしかどうにもならない状況があるけれど、その中でしっかりやりくりしてくしかないのだ。

これが人生、されどどうにも、これが人の世である然りと。

その中で、自分を騙し騙しやっていくしかないのだ。

世知辛い世の中についてなんとなく考察

世知辛い、生きづらい世の中だなと感じてしまう。

一か百かではない。ゼロかイチかを奪い取っているようなご時世だから。

 

これはいい、あれはだめ。そのような議論も必要だろうが、例えば、これならやっていい。そのやり方なら大丈夫だろう、などとも。

自分が一番、他の意見はだめだ。そんな考えが散見されるようになったと、そう思う。

俺もその住人の1人だ。もちろん、その住人だからこそ内側からの意見が言えるのかもしれない。

何事も、丸く収める形で、誰か割りを食っている。自分の時もある。他人の時もある。もちろん、親族の時さえある。万人が幸せに、などとそんな絵空事と思う一方で、自分は救ってくれと切望したい時もある。そんな中で、やっぱり、一方的に被害者にならざるを得なくて、でも「その立場でいてくれたら、あとで感謝するから」と、そんなの、現代社会であり得るのかよ、と。

何が、現代。人の血も、心もいつの時も同じなのに、求める物ばかり大きくなってさ。

 

一度、自分自身を見つめ直そうと思う。自身が相手へ卑しい思いをさせないように、また、この歩の連鎖を止められるように・・・

何ができるのか、もう一度考えたいと思う。それが、大切だと、そう思うのだ。

早くもこの季節

まだ春の気分だった。いや、それは言い過ぎか。

少なくとも、つい先日まで長袖を着ていた記憶がある。そしてあれよあれよという間に半袖に、そして冷房も付けるようになって、と・・・

 

もう夏に差し掛かっている。その前に梅雨だが、この季節感、あってもなくても気持ちは変わらない。夏であって、その入り際に雨が多いだけだ。

まあ、そこは大した話ではない。少なくとも自信が危惧しているのは、時間が瞬く間に過ぎ去っていることだ。毎日、陽の出ている時間帯の、自らの行動を振り返って、「ああ、過ぎてしまったなあ」と思っているわけではない。ある時、ふとしたタイミングでそう思ってしまうのだ。これが大人になるってことか?

 

必ずしも、毎日を充実させてたいわけではない。それでも、1日を振り返って、「今日は楽しいことがあったな」と思いたいし、周りと思っていたいだけなのだ。

でも、それが難しい。1年365日あるものの、たまにしかできない事柄だ。

ましてや、悩み悲しみで終わる毎日がほとんどだ。

 

でも、それでも、たまの楽しみに目を向けて、それに向けて全力を尽くしてもいいのではないかと思いはじめた。毎日の些細な喜び・・・それに加えて、たまの楽しみなイベント。それを願うのは贅沢なんだろうか。

ふと神様へ願って、今の俺になら少しくらいは叶えてくれるのではないかと思ってしまう。