何かに対する「慣れ」について

「慣れ」は人間に内在する恐ろしい感覚だと思う。

自らの感覚論で、これまでは問題なかったからこれからもそれは起こり得ないと判断してしまうからだ。コロナ禍においても、はっきりとそんな感覚が自身に根付いていることも認識することができた。

災禍が広がり始めた昨年の春先。誰しもがこの感染症を恐れ、経済が大混乱すると言われて気が付けば石油製品の品薄状態。歴史の教科書に記載されるような混沌状態。ただ、そんな異常情勢もいっときで、夏頃には「ある程度気をつければ、多少は今まで通りの生活を送ってもいいのではないか」という風潮が強まっていったように思える。

自分は、その混乱に呑み込まれないよう注意は払った。しかし、敵対する相手が未知である場合と、自分の判断あるいは学術的な認知が広がり、相手の全体像が見え始めた今では、自覚できるほどに、心構えが全く異なるのだ。

 

何をとは言えないが、受け入れている自分がいた。

 

この災禍だけではない。例えば、車の運転も、免許乗りたては危なっかしいものの、未知なる挑戦であり、相当の覚悟と準備をした。中学校に入ってすぐの期末テストも、未知なる問いを恐れて相当に勉強した覚えがある。

しかし、いずれも回数をこなすうちに「慣れ」が生じた。今まで通りやっておけば失敗しないだろう、リスク発生による事象を被ることはないだろう、と。

 

慣れに助けられる場面は多い。不要なリスクを切り捨て、リスク回避のための時間や手間を排除する。慣れにより、いわゆる、安心を感じるためのハードルが時間経過などにより低くなっていくのだと考えている。ハードルが下がれば、安心を感じやすくなるから、生活していく上でのストレスも減っていく。

高い「慣れ」のハードルで防御し続けることも必要だが、やり過ぎは不要だと思う。いつなん時でも、世間へ氾濫している情報に惑わされず、「自分は大丈夫」と慢心しないことが重要と考えている。

 

徹底し過ぎず、一方で慢心もし過ぎず・・・難しいバランスだけれど、ここに記載した以上は、心掛けたいと思う。