罵声を浴びせる心

激しく怒られたことは、何度か経験したことがある。
怒り狂った声色で、激しく、繰り返し、浴びせるように投げつけられる言葉の暴力。

今はまだ、それだけ力を跳ね返せるような腕力はない。
いや、たとえそれだけの力があろうとも、同じ行為をとるつもりもない。

怒りとは、人を従わせる力だ。暴力だ。
その原動力は、自らの正しさを知らしめることに尽きる。

「そんなこともできないのか」「何を教わってきたんだ」

いずれも、声を荒げる人間の基準に達していないから発せられる言葉。
あくまで自分目線で、怒るに値するヤツだという自分水準を超えたら出てくる言葉。

もちろん、その怒りが正しいことだってある。
その行動ができていないから周りを不快にさせる。危険に晒させる。損害を与える。
など。
しかし、その怒りは、あくまで個人の水準がどうとかの話ではなく、
その行為がたくさんの人々に悪影響を与えてしまうからだということが発端だ。
その人を自分の言いなりにさせたいことが怒りの理由ではない。

怒りを飛び越え、人をどれだけ恫喝したところで、出ないものは出ない。
出てくるものは謝罪の言葉だけなんてことはザラだ。
でも、恫喝する人間もしっかり理解しているはず。
そもそもの目的は、謝罪させて、自分の思い通りに動かしたいだけなのだから。
出る言葉が謝罪しかなくて申し訳ないとかではないのだ。
謝罪だけを出させて、そして、人を自らの思い通りに操っていることに
満足しているだけなのだ。

怒り、恫喝し、無防備な相手へ罵声を浴びせるような人間に対しては、
ただその人の今までの人生を憐れむことしかできないよ。