トラウマ

最近、重厚なトラウマを植え付けられた。

 

トラウマとは、次の行動に踏みださないための、無意識な理由づけだ。とある書物を見て、自分なりにそんな結論をつけた。

 

とはいえ、だ。

そう頭で理解していても、立ち直ることができるのであれば、人間苦労はしない。

一般的なトラウマからの立ち直りフローがすでに確立されていたとしても、俺は最短距離でその道を進むことができない人間だ。

昔からも、これからも本当に苦労するのだろうと理解している。

また、今回の件。生きづらい世の中だなと改めて実感する機会だった。

 

乗り越えなければならないトラウマはいつでも目の前に立ちはだかっている。

それをよじ登る勇気が欲しい。ほんのひとかけらでいいから。何かを凌駕する力はいらない。

 

と、大袈裟でも、心から欲していて・・・他力本願な考えだ。少しづつでも、自分で努力して、手に入れていこう。

あるべき姿

久しぶりに、書きたい全体像があっても、内容が頭に浮かんでこないなと、少し驚いている。まあ、ただ単に頭の中で文章が整理できていないだけではあるのだが、もどかしくも思ってしまっている。

 

過去の自分は、今現在の歳自分に何を期待していたのだろうかとよく思ってしまう。

ああ、そうだよな。思い返すまでもなく、きっとスマートにバリバリ働いて、良い家庭を築いていて、かつ堅実に暮らしているものだと思っていたのだろう。

 

ただ、まあ、はは。実に惨めだ。

毎日ボロボロになって、スマートさの欠片もなく必死こいて仕事して、理詰めで責められて、泣きそうになりながらも歯を食いしばって・・・

思い描いていた歳の人間とは、程遠い。

弱い人間には、本当にきつい社会だと思うんだ。

何事も、強い人間が勝つ。知識や、技術は微々たるもので、物を言わせぬ発言力や、カリスマなど、影響力の高い要素は、勉強では賄えないし、それこそ生まれ持った才能の類とも言える。

 

前者も、後者も足りない人間には、きつい社会なんだ。ましてや、生半可に持っているからこそ、それなりの土俵に上げられ、ただの得点稼ぎの的にされてしまう。

打たれて死ぬだけのモブキャラってことだ。でも、それが嫌だろうと、なんだろうとこのまま突き進むしかないのが、多分俺の人生だ。

 

しんどかろうが、生きていく・・・それしかない。それが俺のあるべき姿なんだろう。きついんだろうけど。きっと、それしかないんだよ。

 

 

多分人のことを考えられていない

自分はいい人の分類だと思っていた。

でも、唐突にそれが違うと言われたら?いや、違うことがわかったら?

 

高慢な態度を取る人だなと思っていた。でも、それは場合によるんだろうし、そんな態度を自分に取られるなんて思ってもいなかった。

 

ミスは、ミスだ。

大体は自覚がある。自身の性格からいうと、大抵の失敗は認識しているし、反省もその場でしてしまう。ただ、それ以上に詰められると、とても心苦しい。無意識な失敗の指摘は大歓迎だし、そもしっかり改善したいと思う。

ただ、いずれも必要以上の失敗でなければ、だ。

必要水準以下の失敗に、ことごとくダメ出しをされては、こんな性格だ。すぐに折れちまうんだよ。

 

でも、少し自分のことがわかってきた。そんな小さな失敗も同じだ。

人のことを思うつもりで、本当に人のことを思えてきたか?と。

自分が大事で、少し偉くなった気がしていて、だから人を傷つけていないか?ちょっとしたことでも、そんな振る舞いがないか?

 

この自問自答は、人生で1番応えているかも。

最近は、自覚があった。笑いのつもりで人を傷つけている。盛り上げるつもりで誰かをダシにして。無自覚にも、ただ無慈悲に、高慢に、人を傷つけてしまっている、と。

 

いつからお前は偉くなって、人を貶めて良い人限になったんだ。そう問われているような気がする。

 

思いとは裏腹に、そんなことを気づかせたのは、ひどい高慢な態度の人間。でも、俺はそれとどう違うのか。

 

ーーー

 

再度自問自答。でも答えは出ない。正解は闇の中。誰も知り得ない。

ひどいぜ神様。今週を、明日を生きていく気力が全く湧かない。とはいえ頑張るんだろうけど、本当に応えている。

 

しんどい、つらい。かなしい。

 

倦怠感が身体中を蠢いているようで、手先にまで鉛が詰まっているようだ。

でも、大丈夫。ほんの今、ほんの少しだけしんどいだけだから。きっと、そう、大丈夫。

 

苦難はきっと良い方向として現われるはず。その時を信じて、そう信じるしかないのだけど、そんな思いで今を生きていきたいーー

いつの間にか感じる、自身の変化

自分自身はもう、中身は変わらないだろうと思っていた。

時折見かけるニュースには、高校生だか大学生だかで精神形成が完了して、要は、“人が変わる“ことはないようなことが書いてあるものだから、ふと自分を見つめ直したときの、思っていた以上の変化というか、違いに面食らってしまうのだ。

きっかけは私的すぎることなので省くとして、その変化の部分は、こんなにも“人を突っついた笑い”で場を盛り上げようとしているのかという点だ。

 

場を仕切るのは、苦手だ。でも、何かとその場面を取り持つように運ぶ機会がある。

そのような時には、“いじられキャラ“を”しっかりいじって“場を和ませようとする癖がある。悪気があるわけではない。言われた側が満更でもないことは多いし、実際場はそれなりに緩む。

 

でも、その行為って、いじめやその類と何が違うのかということだ。その行為が認めあった中で、内容も認められていればOKという話で、そのどちらかが欠けた時点で、それはNG行動になってしまう。

 

そして、そんなNGな状態で、好き勝手言っていたことに、後から振り返って、そんな自分自信に愕然としたのだ。

もっと、人のことを第一に思っている人間なのだと過信していた。でも、どこかで何かの優先順位が狂ってしまって、自分のことを優先的に考えてしまうようになっていた。

 

見つめ直すきっかけをくれた方に、感謝したい。

悪態つく方法ではない、別のやり方で笑顔を作りたい。

それとこれとの違い。自分で考えて納得

ふと、文系、理系の違いにが気になった。

よく文理の話にはなっても、その細かな部分の話には、なかなかならない。大学生が、特に文理それぞれの出身者が交わることはあまりないからか。中高での友人と文理大学で別れて、大学で学んでいることはあまり話さないのかもしれない(理由を考えてみると、大学生も社会人と同じか。プライベートで大学の話をするなよ、みたいな)。

 

いきなり話が逸れてしまった。

今回、書きたかったのは、何をどう文系理系と括っているのかという区分けの話だ。分野か、それとも大学の持つ色がそうさせるのか。個人的にはそんなに分離する必要はないとも思うのだが、少し気になった。それぞれ重要だと思うのに、そっちに行ったからこっちは学べないなんて、不公平じゃないかと。個人的には、どちらの分野もそこそこ好きだったから、一方を勉強できなかったことは、少し心残りに思っている。

 

また、逸れてしまった。

例えば、医学部。これは、何系になるのかと。分野分けすることはなかったが、特段気にしたこともなかったし、でも、一度考えるとどちらになるのかと。だって、人と人とが、体と体で向き合うような仕事のイメージだから。そりゃ、文系だろうと。勝手なイメージなのは理解している。

でも、論文を書くし、数式、数字も頻繁に使う。実態は理系。そういう意味だと当然理系だ。

結果、理系だとのことなんだけど。

 

とにかく、個人的観点だと、曖昧な分野もある。でも、文系、理系で分けるとわかりづらいけれど、「心と理」の分野の違いなのだと考えたら納得できた。文系は、人の心を追い求める。理系はこの世の理を追い求める、と。

 

なんとなくの価値観なのは理解している。

でも、そのイメージだと文系、理系という意味がストンと腑に落ちたのだ。どちらも、際限ない学問に違いない。

学問を追い求める人の心に、終わりなどないから。

 

 

足りない力と脱落する仲間

力不足を痛感することが度々ある。
思いだけは一人前で、でもそのための力がなければ、実行に移すまでの精神力も実際のところ不足している。

近場で仲間が1人脱落した。そこまでネガティブになる話ではないけれど、
頑張っていこういう想いが皆隠れながらにもきちんと心のうちにあって、
そんな中での別れになるわけだから、少なからずいい話には捉えることができない。
その仲間も、さまざまな想いがある中での決断だったのだと思う。家族がいるし、将来の不安もある。
ネガティブではあるが、その決断には称賛が与えられてもいいと思う。

少し話がずれてしまったが、要は、その仲間に俺がどんな影響を与えらえれたかということだ。
全くの赤の他人ではないから、当人がそんな決断をするまでの過程にて、良い影響を与える機会も
あったのではないかと考えてしまう。

そんな、人をコントロールするみたいに、ああだこうだ言って、責任を感じるなんて、
むしろ思いやりとはかけ離れていて、人の人生をどう思っているんだとも考えてしまう。
それでも、「何か方法はなかったものか」と思ってしまう。

他にも、仕事に疲れた先輩、疲弊する家族、ついでに疲れ始めている自分、、、

全ては力不足が根本原因だと思っている。
ああだこうだと理想だけ振りかざして、そのために力をつけたい。
ただそれだけだ。

盾にする行為

傷つきたくないという想いが、本当に強い。
理由は覚えていない。そもそもの自身の心持ち故なのか、後天的にそう思ってしまうようになったのか、それは今になってはわからない。
でも、だからこそ、中途半端に知能があるからこそ、自信が傷つくことに対しての壁をしっかりと作り込んでしまうのだ。

度々やってしまうのが、「俺はその行動、よくないと思っているよ」という、前出しの防御行為。言う側はなんとでも言える。まるで、相手のことを思っているようで、内心はその後の「だから俺の言うことを聞いておけばよかったのに」の言葉で、自身が悪くないと言いたいだけのただの布石なのだ。
そう言われてしまえば、相手は反論できないだろう。俺もよく、そんな状況にさせてしまったことがある。
傷つくのが嫌いとはよく言うが、それは時たま、他の人を傷つけてでも成し遂げたい行為になってしまう。自らが傷付かないように振る舞って、結果として誰かが傷つく・・・しかし、当人は誰にも悪い影響を与えていないだろうと、利己的な思いで自己を撫でている。

確かに、相手に伝える想いが相手のためだけであり、その人を思っての忠告なんだと、そういうこともある。しかし、そうも言わず、無意識のうちに、自分の心にダメージを負わないようにと盾を作ってしまっていることが多いと、そう思うのだ。

一度、そのような指摘を受けないと、自身を振り返ることは難しいもの。いつの間にか、相手への思いやりを失くしてしまっていることもある。

難しいが、定期的に、自己を振り返って、可能なら他人にズバリと指摘してもらって、自分の振る舞いを反省する機会があっても良いと思う。
致命的な機会に、致命的な行動をしないように・・・自分は、そう肝に銘じておきたいと思う。