助けられないことはないか

困っている人がいるとして、自分は、いつでも助けたい側の人間だ。

自分が困っているとして、自分は、助けを拒んでしまう人間だ。

 

助けたい気持ちと、助ける行為は天と地ほどの違いがある。

思うだけ。もしくは、思っていなくても行動に移す。

 

違う。

手を差し伸べられる側の人間は、気持ちがないものと理解していても、どれだけその行為に救われるのか。

気持ちがはないが、いつも助けることと、気持ちはあるが、いつも助けないことは、大きな差があるのだ。

 

俺は、後者だ。あと一歩が出ない。あと一歩が、いつも踏み出すことができないのだ。

 

様々な要因がある。それでも、その一歩は、ほど遠いのだ。助ける人がいないと、その人が傷ついていたといても、おそらくーー自分が傷つきたくないだけなのだろう。あと一歩が遠いのだ。

 

そして、自分が踏みとどまってしまうことで、皆、傷ついてしまう。

 

明日は、あと一歩を踏み出せるのか。ダメじゃないから。

 

色々な思いを飲み込んで、飲み込んで。今ひとつ、前進していきたい。

自分だけではない

でも、それがより所になってはいけないと、肝に銘じてる。

 

みんなが頑張っているから、自分も頑張ろう。あの人は大変なのだから、自分はまだまだだ。

思うのは自由だ。あいつも力を入れてるなら俺も頑張ろうかなー、なんて。

ひと頑張りのための目標なら大丈夫だろう。でも、これは違う。

人の、削っての頑張りを、生きていく上での拠り所にしてはいけない。

 

誰のための人生だ?あの人も頑張っているから、その人が救われるように、自分も頑張ろうなんて、誰が救われる?

 

自分も、哀れまれて手を差し伸ばされたその人も、誰も救済されない雑な連鎖。

 

 

自分だけではないから大丈夫、という安堵の気持ちも、立ち位置を危うくするひとつの誤った判断に過ぎない。

周りも、周りに合わせている可能性もある。というよりそうであることも十分に加味して、自分で判断した上で、しっかりと決断したい。

 

他人に合わせると、碌なことがない。しっかり自分ごととして判断して、納得のできる結果にしていきたいものだ。

将来への不安と展望①

現在が安定しているからといっても、将来には不安しか抱いてない。

 

理由は、性格が起因だろう。人によっては、なんとかなるや。また、後で考えよう。もしくは、今が安泰だから先も大丈夫。となり、自分は逆に、なんとかなるかはわからない。後で考えて後戻りできない状態になるかもしれない。今が安泰でもいずれはわからない、となる。

 

要は、考えかた次第ということ。でも、それを言ってしまうと元も子もなくなってしまうのだが。

 

あとは、不安にならないよう、十分な備えをするか、だ。

が、備えのための何もかもが足りない。実力、声明、体力、精神力、仲間、、、

数えたらキリがないか。足りなくても、人生に不満がない人が羨ましいくらいだ。

何もかもが不足していて、自分の努力が足りないように思ってしまう。実際そうなのかもしれないけど、劣等感が邪魔してくる。

不安へと誘うのに、特に材料はいらない。常に不安が付き纏っているくらいだ。うまく距離感をとって、付き合っていくしかないのかもしれない。

 

時には落ち込んで、また時には自らを鼓舞して・・・

下を向いてしまう時があってもいい、たまにでも、上を向ければいいのだ。高望みをしすぎず、でも必要なものはしっかりと要求して、求めて、求めて、求めて。

 

自分の人生は自分を中心に回っているのだから。生きづらくてもいい。でも、時には自分の欲求に素直になって、わがままに生きればいいのさ。

 

ひとつ、開き直ってそのように感じるものだ。

自制の効く、効かない

ついつい、やりすぎてしまったなと反省することがあるが、そのような時は決まって、自身の行動の直後にはっと気がつく。

後々になり振り返ったことによる反省の機会は少なく、自身の衝動的な発言・行為に対して愕然とすることが多いのだ。

衝動的なものなので、なかなか気をつけることが難しい。一呼吸考えることができる時は、細心の注意を払うため、そこまで炎上しないのだが、突発的なものはそれができないのだ。

 

該当する自身の行動は、本当に後悔するし、人一倍反省してしまう。

それがその後の振る舞いに影響しづらいのが、また本当にもどかしい。

 

反省してるし、後悔もしている。次、同じような状況に陥った時に、どう生かしたいのかも、きちんと考えている。

 

本当に、自分自身の性格では生きづらい世の中だ。もちろん、世の中が悪いと言うわけではなく、それに合わせられないことが、心底うんざりしてしまう。

 

変えられないものは、受け入れるしかない。「人の性格を変えるより、自分の受け入れ態勢を変える」と、そう言う認識に変えるべきなのだろうが、難しいものだ。

 

恐らく、今後も同じように感じることもあるのだろうが、気持ちを強く生きていきたい。

 

悩みは尽きないものだ。

人生に求めること

人によって様々だ。

 

金、平和、幸せ、平穏ーーー

 

自分も、「普通の人生」をと、楽しい生活を送りたいと、そう思っていた。正確には、そうなることが“普通“の人の生き方で、勝手にそうなるものと漠然と考えていた。

 

まあ、繊細すぎる性格のせいで、必然的に子供の時からそう願望として抱いていたことも理由の一つだ。辛い、辛いと感じていたからこそ、普通の大人になりたいと思った。そういう話だ。

兎にも角にも、その人の性格、性質により求めることは大きく異なる。正確には、“寄り添いたいもの“がと言うことだろうか。

生きる希望とも言えるか。求めるものがあるからこそ、その理想に近づくために努力もするし、少しくらい汚いこともする。誰しもに守りたい城があって、外からガリガリと削られても、内から頑張って守っている。その希望を手中にできる人はわずかなのだろうが、自分もそれを享受できない側の人間なのかもしれないけど、それでもいい。

 

普通の人生を求めることもまた、普通の人生なのだと。

 

多分そういうことなんだと思う。だからこそ、その感覚をしっかり抱いて、“普通の人生”を送りたいと願うのだ。

溜まる疲労感、抱く徒労感

仕事は完璧にこなさずほどほどに手を抜くようにと、耳にタコができるくらいに聞いてきた。

そこかしろのビジネス書にはもちろんのこと、多くの知り合いもそう言う。そこまで頑張らなくても、仕事は回る。それで余った時間を他のことに使えと。

そりゃ、分かっている。分かっているんだよな。もちろん分かっている。けれど、手を抜けない仕事なら?対外的な仕事であれば、相手はお客様なのであるから、手を抜けない。もちろん、手を抜ける部分は数多くあるのだろうが、結局、それが周りにバレたら、なんで手を抜いたんだとなる。

そもそも、手を抜いたところで、空いた時間に別のことを入れられるわけではない。手抜き前提、全力でやってなんとか収まる(今のところ収まっていないが)仕事なんだから、どうかしている。それを減らせる努力も何も、そんな時間はない。振り返っている余裕も、振り返りを生かす余裕もない。

 

そんなこんなで、仕事を頑張って、ああだこうだと言われて、やり切ったところでそんなに達成感を感じられるでもなく、終わった後の空虚な感覚が、虚しさを覚えるほどだ。

 

ただただ疲労だけが蓄積されていく。いくら頑張っても徒労感がある。

今日の仕事は既に終わっているのに。

1日を情熱的に過ごすには

今日は、飛び石連休の最終日だ。昨日が平日だから、そこを休暇にできなかった自分は、ぽっかりと空いた祝日である本日を淡々と過ごしてしまうことになる。

 

その一方、コロナ禍になってから、振り返ってみると「何もなかった」というような日を過ごすことが多くなった気がする。

振り返ると、通常の土日休み、「今日はいいや」「疲れているから」「休みなんだからしっかりと体を休めたい」などの理由から、かなり前から家から出ないことが多くなっていた気がする。何をするでもない、テレビを見たり、ゲームをやったり、それこそ、1日を無駄に過ごしてしまったと、後で後悔してしまうような休日を多く過ごしていたと。

それこそコロナ禍がその時期を前倒ししただけで、そのような気質があったのかもしれない。

 

関東での暮らしは、出不精になりがちだ。気軽に繁華街に出られることが、いつでも行ける感となり、軽やかになるべき休日から遠ざけていたのかもしれない。

 

決して、強迫観念となり、無理にどこかしこを訪れる必要はないと思う。それこそ、たとえ外出せずとも、充実した1日にすることは可能だ。

如何様にも、最後は自分の心次第。

気楽に、でも気負わずに、情熱的な休日を送りたい。