春の陽気を浴びながら

日が伸び、無意識に暑いなとボヤくほど、気温が暖かくなってきた。

 

長い冬を超え、また春が訪れてきている。

日本人故、春の訪れとは感慨深いものであると感じるが、今年抱いているその感情は特に強いのだ。

 

春といえば、出会いと別れの季節。それに接する機会が、特に多いからだ。社会人としてのそれは学生としてのものとは色合いが異なり、桜の色合いである淡く香ったピンクではなく、どちらかといえば汗と努力の赤、あと、個人的には青色が混ざった色合いであるように感じる。

出会いが強調されることには変わりがない。ただ、学生の時の甘酸っぱいような、ほのかな青春の青みがかった季節柄とは大きく異なると、ただただそういうことのように感じてしまうのだ。

 

今日も、気温は高い。冬着はとっくに不要となり、熱気を逃さない材質の衣類を着れば、汗ばんできてしまうほどの体感温度だ。

昨年は、それをほとんど感じることなく家で過ごすことが多かったが、今年はもっと外にでられたらと理想を抱いている。

そして一言、脳内で呟くのだ。出会いと別れの季節か、と。

一つ一つの出会いに感謝しながら、暖かな陽気が降り注ぐ今このときを、精一杯駆け抜けていきたいものだ。

疲労感徒労感

なかなか最近はこの日記の更新頻度が下がってしまっており、文字に触れる機会が減ってきてしまっていると感じている。

 

疲労感から、なかなかに長文を書き込んでいくことの身が入らないのだ。

そもそも文字に触れる機会が多い。無意識に目を通すでなく、身を入れて細部まで見渡すような機会があるのだ。

決して、それが毎日ということではないけれど、そんな日々を送って、帰宅して、さあやるぞという気持ちになれないということが現状だ。

さらに、日々の仕事で文字に触れて、それが何かに繋がっていくということが異常に少ない(仕事柄、かなり内容はぼかしてしまっている)。

 

疲労感と、同時に徒労感も抱きながらとなれば、相乗的に疲れも溜まるということだ。

身を結ぶようなことがあれば少しも気が楽になるのだが。

なかなか人生そうはうまくいかないし、疲れも溜まってしまう一方だけれど、一つ、また一つと頑張っていきたいと思う。

自分の力が他人の未来になることを信じて。

1年、また1年

命の儚さ。それを、何度考えたことか。

 

3月11日は、その日を迎えるごとに、当時の記憶を弄って、どうだった、こうだったと思い返す日になっている。過去を振り返る日は、年に数回ある。自分の中で、特別な日だ。そして、その日にちは年々に増えていくものだと実感しつつある。ただ、この日は特に、一生を持って振り返り続ける日なのだろうとも感じている。

自分ごととして捉えることは、大事なんだなとも思っている。それが、人間が生きる上での、「経験」なんだと少しづつ理解し始めてきた。でも、人生100年時代と言われるものの、その1世紀内で体験できることは本当に少ない。意識して体験できる事柄は少ないのだろうが、意識しなければもっと少なくなる。後者の自分は、体験できない他人の人生を、人より多く疑似体験しなければならないのだ。

そうしなければ、人生の失敗を、回避できる失敗も追体験してしまう、後から振り返っても、もったいない体験に時間を取られてしまうと。

だからこそ、教育は必要だと思う。きちんと事実を、数字を、人の意見を把握して噛み砕き、過去の経験を未来に生かしていくことが必要だと思うのだ。

 

過去の教訓は、学んでいかなければならない。それは、現代を生きる私自身の義務だと思っている。そして、後世に伝えて、引き継いでいかなければならないと。

1年、また1年と年を経るごとに、消えてしまうものもあるだろう。それでも、将来のために、何をすべきか、この日になると、しっかり心の中に刻み込みたいと思う。

変わってしまったか、自分

お前、変わったな。

そう、言われた。イントネーションは、悪いやつ。おかげで、自分も唐突に凹む。

 

何が、どう変わったんだろうか。そもそも、変わることはどれだけ悪いのか。

よくない変化は、当然悪いだろう。慣れに軽んじて、挨拶をしない、悪ふざけが過ぎるなど。それは当たり前か。

 

でも、変化がいい方に転ぶことも、時には、いや、よくあることなのだろう。

 

それでも変化は、それを直面する人により良くも悪くもあるのだろう。

 

昔の方がよかった、一皮抜けた、あの頃を思い出す、成長したな・・・と、その物言いは十人十色、無限にある。

 

自分は、どの変化だったのだろうか。悪い方に変わったのだと思いたくない。少なくとも、かけらでもいいから、良い変化を。自身の今後のためにも、そうあって欲しい。

 

ただただ願うだけである。そうあって欲しいと。

ラーメンが好き、はいつまで通用するか

今日もラーメンを食べてしまった。

こってりした濃い口のラーメンだ。スープどころか、乗っていたオキアミもしょっぱくて、食べた瞬間に水を欲するほどの塩味を感じたが、それでも全て食べ尽くした、いや、飲み干してしまった。

 

節目を超えて、体の調子が気になるようになってきた。アルコールもそうなのだが、最近は塩分の取りすぎを恐れている。

ただでさえ、しょっぱいものが好きなのに、それでもってあえてしょっぱい食べ物を我慢してまでも食べ進んでいては、流石に今後は体に影響が出てしまうんではないかと考えてしまう。

 

早いうちから我慢するか、それとも我慢は毒だと気にせず食べ進めるか・・・

どちらを選んでもいつかのタイミングで後悔するのだろうが、やはり我慢はせずに食べたいものだ。

それでも、気にせず、美味しく食べられるのはいつまで可能なのだろうか。

無尽蔵に何でもかんでも食してみたいものだ。そう理想を掲げながら、今日も健康と空腹感を天秤にかけて、夜食の準備をする。

責任を問われれば

あいつが悪い。こいつがダメだ。

 

そんな喧騒の中にいると、自分までもがよくなかったのかと考えてしまう。

今、そんな渦中にいる。

 

有名な人物の言葉で、「誰かが責めてくれるんだから、自分だけは自分を責めなくても良い」ような発言があるが、冷めた気持ちで受け取ってしまうようにもなる。まず自分で責めるから、その後の他人の責めも、そりゃ受けるしかないだろう。

 

すさんだ気持ちが少しづつ積もっていく。かつてはそこの見えるほどだった薄い塵も、今や重厚に押しつぶされた厚い地層のよう。それに、若干の水分が混ざり、どんよりと濁った泥水にも近い感触か。

 

責任を押し付けて、それで解決じゃあないでしょ。

なんでそうなったか、根本は何か。そしてそれを二度と起こさないためにはどうしたら良いのか。それをわからないのか。

 

自分自身、そんな立場になったら、逆のことを言ってしまうかもしれない。でも、この先、逆の立場になった時に、そう言わない、言えないような仕組みが必要なんじゃないか。

 

重く、苦しい。

 

その者の、叫びは聞こえないのか。

 

でも、ただ、俺は、それを聞いているだけだ。

それしかできなくて・・・苦しい。

時間の重さ

始めることが早い方が得だって、ずっと考えてきた。

今になっても、大人になってからだと仕事が、と、中年になっては体がいうことを聞かないからと、事あるごとに知り合いないし上司などから浴びせられるように言い聞かせられていることから、自分が考えてきたことはあながち間違いではないのだろうと納得もできている。

 

最近、やりたいことができた。見方によれば、やっておきたいことというか、いつでもできるけれど始めるならば早めがいい類の、始める時期を悩むようなものではないのだけれど、実際その立場になってみて、社会人としてのやるべきことと、そのやりたいことのバランスが取れないことにも気がついたのだ。

 

普通にやればそんなバランスなど考えずとも、やりたいことなんだからやればいい。けれど、自分の場合はなかなかそうはいかない。

意識をあっちにもこっちにもと、四方に向けられないからだ。

 

やっておけばいいとは理解している。でも、なかなかそうイメージ通りにはライフプランは動かなくて、かつ、生きれば生きるほど、自身の残り時間の重みが増して、益々動けなくなるんだろうと辟易としてしまう。