人のこと、自分のこと

時々、人のことと自分のことの閾がわからなくなることがある。ここからが私よ、こっちは俺が、と。そういう感覚論についての思いだ。

 

人によると思う。意識が強い人なら、広く取るだろう。逆なら狭くとる。そういうもので、定義づけられたものではない。曖昧だからこそ、基本的にはその広さ加減に定義がある。数値的な広さだったり、感覚論な空間だったりする。けれど、定義づけられているとは、すなわち黙認できるルールがそこに位置づけられているということだ。

 

始めてみたとしても、道に迷うことはない。

未知の場所に手ぶらで行くよりは、何らかの飾りをもって目的地を目指す方が、到着時間は多少なりとも短くなるはずだ。

 

少し道を進んで、地図やそれに類する、道標なる何かがないことに気がついて、引き返すのか、それとも振り返って、支えになる何かを探すのか。

人によるだろう。でも、自分はそれを探すことに専念したいと考えてる。

進んだ後に、その畦道に何が残るのか。何も持たずに進めば、その跡しか残らない。後追うものがその背後を記すしかないのだ。でも、先頭が記しながら進めば、時間はかかるかもしれない。でも、残されたものには、それが灯火になる可能性もあるのだ。

 

時と場合になるだろうことは、理解している。でも、仄かであれども道標になるのであれば、それは将来に託すという意味を成しているのではないかとも考える。

 

道を耕しながら、そこはひとつ、未来に種を蒔いてみてもいいのではないか。

 

いいか悪いかはわからないけれども、そう思うのだ。