気になるあの声

八方美人という言葉があって、それって自分のことなんだよなと思ってしまう。

その思いは、現在とあることに向けられており、いいこと悪いこと両方を有しているんだよなと納得している状況である。

まず、いい点として、八方美人は悪い人ではないということ。これが唯一無二の良点と思う。いつも中立を保つ人柄であり、悪い方へは決して傾かない。良くも悪くも関係性の浅さがあるが、深くまで入り込んでドロドロになるわけでもない。

一方、その“浅さ“が欠点にもなり得る。本音を語ることができない。深くまで入り込めないから、よく、輪から取り残される。自身に対するネガティブな面としては、疲れが出てしまうこと。入り込もうとすると、自分自身が拒絶してしまうということだ。

 

今、どこまで踏み込むべきかと考えてしまう場面を抱いている。それでも、しっかり考えた上で、深さによるいい点悪い点を思い浮かべながら、接していくことにしたい。

 

 

 

 

めくるめく日々

普通の人生を送っていきたいと、そう思っている人は大多数を占めているのではないか。

自身もそれに分類される人間だ。

 

ただ、時を経てわかる、普通の難しさ。人によってその基準が異なるのもポイントであると、最近は感じ始めた。

形容し難いのだ、普通というのは。そしておそらく、自分にとっての普通は、一般的なものより多少は程度が高い。

理想が高いともいうべくかもしれない。でも、目指しているところは、多少なりともそんな高台に乗っかっている。目指して、手が届きそうなのだ。後少し、もう少しと。頑張ってしまうものだ。実際、少し、無理をしている。そんな無理を背負って、普通を目指そうとして、普通の基準が少し低めの知り合いが周りにいると、それを手綱に引っ張りながらの人生なのだと感じてしまう。

 

「こんなに頑張って、何になるの?」と、猜疑心すら芽生えてくる。

俺の人生には、どんな価値があるの、と。

 

でも人生って、きっとそこまで力を入れすぎるものではないのだ。昔ならともかく、今は自由な時代だ。だらりと暮らしてもいい。めいいっぱい、時代に争ってもいい。

そんな目標をそれぞれ携えて、自分のペースでめくるめく日々を送っていけばいいのだ。

自分も、肩の力を抜いて、のんびりと前進していくこととしたい。

自分なんかと思ってしまうって

お前は頑張ってる、とか、評価されているぞ、とか、安心して、とか言われても何がだ!と思ってしまう。

何を頑張ってるって?どこをいい評価されているって?何を持って安心すればいいって?一言で終わらせるのではなくて、修飾して、わかりやすく伝えて欲しいのだ。

きちんと、何が良くて何がだめだったのか、客観的に伝えて欲しい。それって、一つの技能なのだろうか?何がどう、という言われ方は、された試しがない。自分って、そんなにも見られるような部分がないのか、とも思ってしまうのだ。

今の立ち位置も、意味がわからない。「お前は評価されているんだから」と言われて、微塵も納得ができない。

何を?誰に?どうやって?どこを?いつ?・・・評価されているんだ。

欠片も伝わってこない。いや、伝えられないなら伝えるなよ、と。

 

一方、それを伝える側になってしまっているのが現実だ。自分が思っていたことを、人に投げかけているのだ。

ただただ、苦しい。自分がされて嫌なことを、人にしてしまっていると、そう思うだけで心が重い。本当に苦しい。今キーボードを打つ指先が止まってしまうくらいだ。重圧に指が動いていかない。

 

俺は、本当に必要とされているのか。誰かが答えてくれないなら、自問自答して、自分なりの答えを出してしまうしかない。ただそう思ってしまうのだ。

人に言えない辛さ

自分は、どちらかと言えば抱え込んでしまうタイプだ。悩みがあっても、「言っても迷惑をかけてしまう」とか「結局伝わらない」とか思って相談できない人間。

ネガティブな言い回しだが、いい面もある。変に周囲に共有しないから、話が大ごとにならない。自分のうちで処理ができる。そんなところだろうか。

 

でも、でもやっぱり、悪い面が多い。

相談すれば早く解決できることも、できなくなる。何が起こっていたのか、自分がいなければ知っている人がいなくなる、などである。

 

変な壁が、ある。

 

自分が作るそれがあれば、いつの何か全体で作っているそれらもある。

そういう雰囲気を醸し出してしまう風が、ある。

それはおそらく、抱え込むとか、うちに仕舞い込むとか、そういう部分があって、そういう人間だと思われていると、いつの間にやら全体として暗い雰囲気になる。言えない感覚が、あたりに充満してきてしまう。

 

自分ごとは、あまり良くないことだ。あくまで、チーム。正義感を持って、しっかりを成すべきことは成していく。

 

そうあるべきだ。それで良いのだ。

人のこと、自分のこと

時々、人のことと自分のことの閾がわからなくなることがある。ここからが私よ、こっちは俺が、と。そういう感覚論についての思いだ。

 

人によると思う。意識が強い人なら、広く取るだろう。逆なら狭くとる。そういうもので、定義づけられたものではない。曖昧だからこそ、基本的にはその広さ加減に定義がある。数値的な広さだったり、感覚論な空間だったりする。けれど、定義づけられているとは、すなわち黙認できるルールがそこに位置づけられているということだ。

 

始めてみたとしても、道に迷うことはない。

未知の場所に手ぶらで行くよりは、何らかの飾りをもって目的地を目指す方が、到着時間は多少なりとも短くなるはずだ。

 

少し道を進んで、地図やそれに類する、道標なる何かがないことに気がついて、引き返すのか、それとも振り返って、支えになる何かを探すのか。

人によるだろう。でも、自分はそれを探すことに専念したいと考えてる。

進んだ後に、その畦道に何が残るのか。何も持たずに進めば、その跡しか残らない。後追うものがその背後を記すしかないのだ。でも、先頭が記しながら進めば、時間はかかるかもしれない。でも、残されたものには、それが灯火になる可能性もあるのだ。

 

時と場合になるだろうことは、理解している。でも、仄かであれども道標になるのであれば、それは将来に託すという意味を成しているのではないかとも考える。

 

道を耕しながら、そこはひとつ、未来に種を蒔いてみてもいいのではないか。

 

いいか悪いかはわからないけれども、そう思うのだ。

それは断じてやらない

自分の中に曲げられない信念というものがある。

犯罪や人を貶めるような類は当然除外するとして、その行動を人に説明するときに、言い訳をしてしまう事柄は、やらない、やりたくない。それが一つの信念だ。

 

自分の行動に責任を持っている。自身を持ってその行動を紹介できて、自分は正しかったのだと、そう説明できることが重要だ。

純真無垢な子どもに、それを紹介できるか?そして、それが悪いことではないと説明できるか?その行動を自分がされたとて、許せるのか?

 

ひとつ、先のことを考えて振り返ったときに、何も後悔しないのか、そして、本当に何も思わないのか?

想像力をもって、損得勘定が働いてもいいから、自分の行動には責任を持ちたいのだ。

人からそれを強要されても、しっかり「No」と言えるように、強い心で立ち向かっていきたい。それが、自分のあるべき姿だと強く願っているから。

 

 

日々のもやもや(焦燥感?)

最近、ふと日々過ごしていくことに何となくの焦燥感が積み重なっていることに気がついた。

 

それは何となく、ほとんど気がつかないような、「自分ならあれができるかも。でもできない」「今だからこそやれることがあるはずだ。でもやれない」という微小なかけらが溜まった結果であると思う。我慢が膨れ上がったことが原因というか。

生憎にも、爆発寸前というわけではないし、死ぬまで・・・と言わずともある程度まで繰り越していける部類の我慢であると理解している。

 

それでもやはり、自分の欲に少しくらいは従ってみたいような、そんな気持ちが特に最近は心の底にあるのだ。だからこそ、日々、焦燥感が蓄積されている。

 

なかなか難しいものだ。もう近頃は特に、天秤にかける前に行動は取れない。そんな責任が、責任感があるから。自分勝手には動けないのだ。

 

だから、何をここに書こうが、それはただ鬱憤をわずかに放出するための場でしかなくて、結局明日にはそれも忘れて、少しづつまたそれが積み重ねられていくだけだ。

 

 

ただ、ただ、ただ、それでもいいんだ。それこそが自分の人生、焦燥感は受け止める覚悟はできている。書いていること全く逆の意味になり、辻褄が合わなくもなるが、それが、それこそが今の幸せなのだ。

 

矛盾は記載の通り。

でも、それでいい。それがいい。この制限の中でいかに楽しく生きていくのかが重要なのだから。

さて、明日からも引き続き、この日々もやもやとうまく付き合いながら生きていくこととしようか。